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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)511号 判決 1977年10月27日

控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 北沢和範

田中義之助

渡辺真一

被控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 平岡高志

平岡清国

主文

原判決を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも本訴及び反訴を通じ被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、もし、被控訴人の離婚請求が認容される場合は、予備的反訴として「被控訴人は控訴人に対し金三〇〇万円及びこれに対する昭和四九年一〇月三〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。ちなみに、控訴代理人は、原審では反訴請求として、「控訴人(反訴原告)と被控訴人(反訴被告)とを離婚する。控訴人と被控訴人間の長男一郎(昭和四四年八月二〇日生)の親権者を控訴人と定める。被控訴人は控訴人に対し金三〇〇万円及びこれに対する昭和四九年一〇月三〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。」と請求していたものであるが、当審において、右反訴請求中の離婚を求める部分を取下げ、慰藉料請求部分を予備的反訴に改めたものである。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次に附加するほか原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する(ただし、原判決四枚目表八行目「原告」とあるを「被告」と訂正する。)。

(主張関係)

控訴代理人は、本件控訴の理由および反訴請求中、離婚請求部分を取下げ、慰藉料請求部分を予備的反訴に改める理由につき次のとおり述べた。

原審判決は、被控訴人請求にかかる離婚につき、控訴人もこれを望んでいるとして認容したものであるが、控訴人の本心は婚姻の継続を強く望んでいるものである。それにもかかわらず、控訴人が離婚ならびに慰藉料の請求を求めて反訴を提起したのは周囲の人々のすすめに因る。即ち、周囲の人々から被控訴人の離婚の意思を飜意させることは難しかろうから、被控訴人請求の離婚が認められる場合には、せめて慰藉料ないし財産分与として金三〇〇万円の支払いを求めてはどうかと説得されたことに因るものであった。しかし、今日、長男一郎も成長し、両親の揃った家庭を見て「父ちゃん戻って来てくれないかな」等と言うのを聞くにつけ、子供のためにも両親の揃った円満なる家庭を築きたく、ここに離婚を求める旨の反訴請求はこれを取下げることとし、慰藉料請求部分は予備的に維持することに改める次第である。

右述の如く、原判決は被控訴人の離婚請求を認容するにあたり、控訴人も同じく離婚を望むものとの前提に立ち、被控訴人と控訴人間の破綻の原因につきいずれに責任があるとも断じ難いとしているが、右破綻の主たる原因は被控訴人側に在る。

一  被控訴人は、昭和四三年八月結婚以来同四八年八月別居に至るまで、その収入の大きな部分を占める航海手当、漁獲手当を一銭も家へ入れていない。航海手当は昭和四九年以前は一日六〇〇円、三ヶ月の航海で五万円以上、漁獲手当は一航海平均一二、三万円、多いときは二三、四万円少いときで七万円位支払われている。航海中の食費は無償であり、日用品、酒、煙草、菓子等の購入資金は一航海三、四万円もあれば足りる。したがって、右手当のうち相当額は家に入れられる筈である。

それを被控訴人は、結婚当初は僅か三万から四万円程度の本給しか家に入れず、その中から入港、出港の都度二、三万円の金をいわゆる仕込金(航海中の日用品、酒、煙草、菓子等の購入資金またはその不足に充てるもの)として持ち出すのであるから、控訴人の家計は極めて苦しく、昭和四四年八月に長男一郎が生れてからは、ミルク代にもことかく状態であり、下宿人を置いたり、内職をしたりしてやっとやりくりした次第である。その上、三月、八月に支給される期末手当、六月、一二月に支給される賞与を昭和四五年六月まで全く入金せず、被控訴人の右仕打は夫婦間の協力義務違反とも言うべきである。

収入が仮令少くとも、夫婦が乏しきを分ち合うのならば、控訴人はこれに不満を抱く理由はないが、他に大きな収入がありながらその金額も使途も明らかにせず、控訴人に渡される少い本給の中から仕込金を持ち出すのでは、控訴人に不満を抱くなと言う方が無理である。被控訴人のこのようなやり方が夫婦間に不和をかもすきっかけとなっているものであるから、不和を作った原因は主として被控訴人に在る。

二  被控訴人は、遠洋漁業に従事中、上陸して自宅に戻った短い期間、毎日朝三時頃起きてA町にある実兄乙山五郎(以下実兄と略称する。)方の漁業の手伝に行き夜迄帰らず、殆ど食事を自宅でとることもなく、近海漁業に変って、A町に住んでいた折も、港から戻ってすぐ(午后三時前後)から夜の一二時過まで右実兄方に手伝いに行ってしまい、自宅に落着いていることは殆どなかった。帰宅が遅いせいもあり近海漁業の船に乗り遅れたこともあり、また、何んとしても被控訴人の健康が心配で、控訴人が実兄方に手伝いに行くのもほどほどにして欲しい旨注意すると、被控訴人は腹を立てて控訴人に乱暴する始末だった。

控訴人としても、被控訴人が遠洋漁業の船乗りである以上、家をあけることが多いことは覚悟の上で結婚したものであるが、せめて、上陸して家に居る間は、そばに居て団らんの時間を持って欲しいと思うのは妻として当然の願いである。

上陸中ないし近海漁業に従事中、家に殆ど落着いていたことがないことが、夫婦間の争いの他の大きな原因となっていたのであるから、不和を作った原因は主として被控訴人に在る。

三  被控訴人は、職場が遠洋漁業より近海漁業に変り勤務の都合上A町に転居する必要があるにもかかわらず、控訴人がこれを拒んだことをもって夫婦間の不和の一因の如く言うがこの点については、結婚前に控訴人・被控訴人間で将来職場を近海漁業に変えてもらい糸魚川の自宅から通勤するという約束があったものである。自宅からA町まで約一〇キロメートルにすぎず、オートバイでも購入すれば約二〇分もかからず通える距離である。加えるに昭和四七年二月から八月までA町に転居したこともあったが、自宅を空家として他に借家する不経済はとも角としても、前記のようにA町には被控訴人の実兄の家があり、被控訴人は帰宅するが早いか実兄方に手伝いに行ってしまい夜一二時過まで帰らず、控訴人が注意すると腹を立てるということが重って、控訴人としてはA町での生活にこりていたので、昭和四八年七月頃被控訴人よりA町へ転居しようと言われてこれを断ったものである。その本意は、もう少し被控訴人に家庭を大事にして欲しいという切なる希望から出たことであって、単なる我侭からではない。よって、右のことをもって控訴人に不和の責任を転嫁すべきではない。

四  被控訴人は、昭和四八年八月二一日夜、夫婦げんかの揚句夫婦で控訴人の実家へ赴き、控訴人が一足先に家に戻った際被控訴人が外に居るのに気づきながら施錠をして被控訴人を締め出したとし、これが破局の決定的要因かの如く言うが、控訴人の実家を出たのは被控訴人が先であったので、控訴人としては被控訴人は既に帰宅し二階で就寝しているものと思い施錠して階下で就寝したもので、被控訴人が外に居ることには全く気づかなかったものである。被控訴人は戸を叩いて合図したとも言うが、もしそうであったなら、控訴人は幼時中耳炎を患い左耳がやや聞えずらいところに、同夜被控訴人から左耳を強く叩かれさらに聞えずらい状態にあったため聞きもらしたものであろう。控訴人は故意に被控訴人を締め出したものではない。よってこのことをもって控訴人に対し不和の責任を負わすことも正しくない。

以上要するに、夫婦間不和の原因は、被控訴人がその収入の大きな部分を隠して控訴人に充分の生活費を渡さず、上陸している間あるいは近海漁業に従事している間実兄方に入りびたって、控訴人と暖い家庭を築き上げていこうという意欲に欠けていたことに在るものである。したがって、控訴人において前叙の如く離婚の意思がない以上、被控訴人の本訴請求は棄却さるべきである。

(証拠関係)《省略》

理由

《証拠省略》によれば次の事実が認められる。

1  被控訴人は、亡乙山十郎、亡同ハルの三男として昭和一三年一月一四日生れ、A中学校卒業後昭和三一年以来新潟県立A高等水産学校に同校所属の実習船の船員として勤めているもので、同人は早く両親と死別したこともあり、A町で漁業を営む実兄とは特に親しく往来しているものである。

控訴人は、甲野松男、亡同タケの三女として昭和一四年六月八日生れ、同四一年に親の住家より約二〇〇米の距離にある糸魚川市大字B町×××番×に住家を建ててもらって、爾来同所に居住しているものである。

2  被控訴人と控訴人とは、昭和四三年八月一八日訴外Kの媒酌で結婚式をあげ、同月二二日婚姻の届出をして控訴人の氏を称する夫婦となり、前記控訴人所有家屋に居住し、両名間には昭和四四年八月二〇日長男一郎が出生した。

3  被控訴人の勤務には、遠洋漁業の実習船乗り組みと近海漁業の実習船乗り組みとの二種類がある。遠洋漁業の場合には、神奈川県三浦市の三崎港を定繋港とする「○○丸」に乗り組み、一航海約三か月、年三航海の服務となる。したがって、この場合は上陸して家族と共に過せる期間は年間約六〇日しかない。近海漁業の場合は、A港を定繋港とする「△△丸」に乗り組み、毎日午前五時から午后二時ないし三時頃までの乗船服務となる。したがってこの場合は自宅より通勤し、毎日家族と共に過せることになる。

被控訴人は、昭和四七年三月から八月までと、同四八年九月から一一月まで近海漁業に服務したほかは、いずれも遠洋漁業に服務しているものである。而して昭和四七年の近海漁業服務中はA町に家を借り家族と共に移住したが、昭和四八年の近海漁業服務のときは、後記の如く控訴人と別居し実兄方に下宿していたものである。

4  被控訴人の給与は、月給・期末勤勉手当のほか航海ごとに航海日数に応じて支給される航海手当、航海ごとにその期間の漁獲高に応じて支給される漁獲手当等からなり、その税引き受給額は左表のとおりである。

年度

月給

期末・勤勉手当

寒冷地手当

航海手当

漁獲手当

備考

四三

三三、四五八

三四、五五八

一二八、七〇〇

二八、八〇三

一二二、一九〇

一九五、三三四

四四

四一、八九七

四九、四〇六

二〇〇、〇一一

七三、五四二

一四二、五〇〇

二八七、四六一

四五

四八、五九七

五八、二三三

二九〇、四一二

四七、三七七

一三五、七七〇

二六六、九九六

四六

五七、四〇三

六七、六二七

三四〇、七九九

四九、六六二

一六五、四五〇

三四六、六五七

四七

六八、六二七

七九、八六〇

三九六、〇二〇

五二、一三〇

一一七、五四〇

三一二、一六四

四月~八月まで

近海漁業

四八

七〇、六四

八一、二六九

四八九、八三二

六〇、六七〇

一〇四、四二〇

二五〇、三九二

九月~一一月まで

近海漁業

(注) (一) 年度は四月一日より翌年四月三〇日までとする。

但し四三年度は八月一日より翌年四月三〇日までの受給額である。

(二) 月給は、当該年度の最低月額を右側に、最高月額を左側に記載する。

(三) 諸手当は、当該年度の合計額である。

5  被控訴人と控訴人とは、結婚後一年をすぎる頃よりとかく喧嘩が度重なり、昭和四八年八月二一日夜の喧嘩を契機に別居し、被控訴人はA町の実兄方に居住し現在に至っている。

6  その間、被控訴人は昭和四八年九月頃新潟家庭裁判所糸魚川支部に控訴人を相手方とする離婚調停の申立てをし、数回調停期日で話合がなされたが、結局不調に終った。次いで、控訴人から同裁判所支部に被控訴人を相手方とする同居を求める調停の申立てがなされたが、これも不調に終った。その後昭和五一年になって控訴人から同裁判所支部に被控訴人を相手方とする養育料ならびに生活費請求の調停の申立てがなされ、同年四月二七日被控訴人は控訴人に対し昭和四八年一二月一日から離婚成立に至る月まで婚姻費用として一か月金五〇、〇〇〇円を支払うべき旨の調停が成立した。

二 そこで、被控訴人が婚姻を継続し難い事由として主張する事実について、以下検討を進める。

右検討にあたっては、前叙認定の事実を基盤に、《証拠省略》を総合して認定し、かつ、判断するものである。

1 控訴人が被控訴人の給与が安いと非難し、これが家庭不和の一因となったとの主張について

被控訴人の給与は前叙のように月給以外の諸手当が相当額に達する。しかし、被控訴人から生活費として控訴人に渡されたものは月給のみで(もっとも、昭和四五年六月からは期末・勤勉手当も渡されるようになった。)、諸手当は自己に保留しその額も使途も控訴人に知らしめなかった。しかも、被控訴人は出港のたびに控訴人から仕込金(航海中の日用品、酒、煙草、菓子等の購入資金)として金三万円ないし金四万円を支出させ、また、入港の際にもたびたび金二万円ないし金四万円程度の送金を要求する始末であったので、控訴人が手許不如意を訴え不平をもらしたことは当然といえる。

被控訴人は、月給のみでも月々金一万円から金一万五、〇〇〇円程度の貯金はできる筈で、控訴人の金づかいには無駄が多いと非難し、その例としてマットレスの購入(昭和四五年七月頃)、電話の架設(昭和四八年八月の別居以後)をあげるが、控訴人は家計を補うべく内職をし、また下宿人を置く等して、昭和四八年八月頃(別居時)には被控訴人名義で約金一〇〇万円近い貯金をしていたものであるから、むしろ、控訴人は被控訴人の意を体して節約につとめていたものと評すべきである。

2 控訴人は、被控訴人が上陸期間中は実兄方に入り浸っていると非難し、これが家庭不和の一因となっているとの主張について

前叙のように、遠洋漁業に従事する間は、家族と共に過せる期間は年間六〇日程度にすぎない。それにも拘らず、被控訴人は帰宅するやすぐ実兄方を訪ね、殆ど毎日の如く朝早くから夕食後まで実兄方にとどまって、その漁業の手伝い等をしていた。近海漁業に従事していた間は、前叙のように、A町に転居したこともあって、下船するやすぐに実兄方へ赴き午后一二時すぎになることも多かった。したがって、控訴人が右の如き被控訴人の態度に不満を表明しても異とするに足りない。

被控訴人が実兄方に入り浸った原因は、子供が留守の長い被控訴人になつかなかったこと、控訴人との間には金銭をめぐってのいさかいしか対話がないことに嫌気してのこととも推測されるが、家庭よりの逃避はますます家庭の破壊につながることを戒心すべきである。

3 控訴人は、昭和四八年四月頃被控訴人に近海漁業へ変る話が起った際、A町への転居に反対したため、右の話しは取りやめとなったことがあり、こうしたことも家庭不和の一因をなすとの主張について

被控訴人に話しのあった近海漁業への配転の期間は、昭和四八年九月より三か月というものであった。短期間でもあり、また控訴人がA町への転居を嫌ったこともあり、その間は被控訴人が単身で実兄方に下宿することに夫婦間で了解ずみのことであった。したがって、控訴人のA町移転反対のため近海漁業への配置換が取りやめになったとの事実はない。なお、控訴人が再度のA町居住をきらったのは前記2記載の事績にこりてのことであるから、あながち控訴人を責めることはできない。

4 控訴人は、昭和四八年八月二一日夜被控訴人が屋外に居ることを知りながら施錠して締め出したことが破局の原因であるとの主張について

昭和四八年八月二一日は給料日であった。当日被控訴人は帰宅して給料のうちから金四万円を控訴人に渡し、残りは前叙の如く九月より実兄方に下宿するための費用として自己に留保した。そして、金四万円で生活費に足らぬ分は内職収入より補うよう言ったところ、控訴人が内職収入は電話架設に充てるつもりであると答えたことが発端となって口論となり、被控訴人が控訴人のA町へ転居しないことを責めたのに対し、控訴人が出港は午前五時であるから自宅より通勤できると反論したことに立腹した被控訴人は控訴人の左耳附近を手で一回殴打した。そして、被控訴人は控訴人をつれて喧嘩のとりまとめを頼むべく近くの控訴人の実家を訪れたものの同所での話合いによっても気持はおさまらず、被控訴人は控訴人を残して右実家を出、近所を徘徊したあと家に向ったところ、一足遅れて実家を出た控訴人は、被控訴人がいまだ帰宅していないのに施錠して就寝してしまったため、被控訴人は家へ入ることができず、やむなくA町の実兄方へ赴いて宿泊し、以来実兄方にとどまり別居を続けているものである。

被控訴人は、控訴人は被控訴人が一足おくれて帰宅してくることを知りながらあえて施錠したものであり、しかも被控訴人が戸を叩いて合図するのを聞きながら消燈して就寝したもので、ことここに至っては離婚もやむをえないと言うのに対し、控訴人は、実家を出たのは被控訴人が先だったので、既に帰宅して二階で就寝しているものと思い施錠したものである、被控訴人は戸を叩いて合図したというが、もしそうであったなら、控訴人は同夜左耳を殴られもともと中耳炎を患って聞えずらい耳がよけいに聞えずらくなっていたため聞きもらしたものであろうと弁疏し、そのいずれが真実であるかにわかに断定しにくいが、被控訴人の帰宅の意思が強ければ控訴人の実家の親の応援を求める方法もあったことを思うとき、被控訴人は施錠を奇貨として実兄方へ赴いたものとの疑を禁じえない。したがって、同夜の出来事は喧嘩の延長上の瑣事であって、これをもって破局の決定的要因をみるのは相当でない。

なお、当夜控訴人の実家で、控訴人が被控訴人に対し「こんな薄馬鹿にはついていけない。」との侮辱的言辞を用いたとの被控訴人の供述部分は、《証拠省略》に照らしにわかに措信しがたく、他に右事実を認定するに足る証拠はない。

以上認定の事実によれば、民法第七七〇条第一項第五号の離婚原因は存在しないものといわざるをえない。被控訴人と控訴人間の不和は、被控訴人が自己中心的で、妻たる控訴人の心情に思いをはすることが少なかったことが控訴人の反発を誘い、不和の溝を深めるに至ったものといえる。しかし、控訴人がいまだ被控訴人に対し愛情を有し、被控訴人において希望するならA町での生活も厭わないとしてその復帰を熱望している現在、被控訴人も、従前の態度を反省し、子供のためにも円満なる家庭の再建にこそ努力すべきであり、また、当事者双方の年令からみても、その可能性は充分にあるものと信ずる。

三 そうすれば、被控訴人と控訴人との仲は、回復し難い程に破綻しているとは言えないから、被控訴人の本訴請求は失当として棄却すべく、これと結論を異にする原判決は不当であるからこれを取消し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鰍沢健三 裁判官 輪湖公寛 裁判官後藤文彦は転勤のため署名捺印できない。裁判長裁判官 鰍沢健三)

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